BOTANIST Journal 植物と共に生きる。

BOTANIST journal

LIFESTYLE 22

日本の植物分類学の父・牧野富太郎博士とは。

1862(文久2)年に高知県で生まれ、94年の生涯を植物の研究にささげた植物学者・牧野富太郎博士。何よりも植物を愛し、植物と向き合い続け、「日本の植物分類学の父」の異名を持つ牧野博士の人柄や業績について、博士ゆかりの地である高知県立牧野植物園の橋本さんに聞きました。

日本の植物分類学史は牧野博士から始まった。

牧野富太郎博士とは、明治から大正、昭和にかけて活躍した、日本を代表する植物学者。幼い頃から植物を愛し、植物の研究一筋の人生を送った人物です。橋本さん曰く、「日本でまだ植物が学問として確立していなかった時代に、日本の植物を一つひとつ明らかにし、それらが人間にどう役立つのかを解明していったのが牧野博士。今につながる日本植物分類学の基礎を築き上げました」。

自らの足で全国を歩いて植物を調査し、その特徴を学術的に記述し記録。新種や新品種など1,500種類以上の植物を命名しました。94年の生涯において収集した標本は40万枚以上といわれ、蔵書は約4万5千冊。「牧野式植物図」と称される、植物の特徴を正確かつ緻密に描写したスケッチを含め約1,700種類の植物図を残したことも有名です。

「こうした業績から、牧野博士は『日本の植物分類学の父』と呼ばれ語り継がれている偉大な学者です。しかし、決して特別な教育を受けたわけではなく、基本的に独学。最終学歴は小学校中退なんですよ」と橋本さん。異例の経歴を紐解いていくと、牧野博士の植物に対する熱い情熱が見えてきます。

豊かな自然に育まれ植物愛が開花した少年時代。

牧野博士は1862(文久2)年、現在の高知県高岡郡佐川町に生まれました。実家は酒造と雑貨商を営む商家であり、家族や親戚に植物に関わるような人物はいません。とはいえ、家の周りには豊かな緑が広がり、大いなる自然に包まれた環境。牧野博士は幼い頃から野山を駆け回り、そこに生きる植物たちに興味を持っていったといいます。

また、裕福な家ゆえに貴重な書物も十分手に入る上、佐川町自体も学問が盛んな地域で豊富な書物が身近にあるなど、学ぶ環境にも恵まれていたそう。古来中国で起こり、日本では江戸時代に全盛となった薬用植物・動物・鉱物などを研究する本草学や、当時西洋から日本に伝わってきたばかりの植物に関する書物を好んで読み、植物の知識を深めていきました。

「ちょうど少年時代に本草学や植物分類学に触れたことが、牧野博士にとって大きな刺激に。それまで純粋に好きだった植物というものが研究対象になる学問があるのだと知り、そこから一気に日本中の植物を明らかにしたい! と想いが高まったんです」と橋本さんは話します。

当時はもちろんまだ、手軽に調べられる植物図鑑のようなものは存在しません。実際に身近にある植物を観察しては、手元にある書物の内容と照らし合わせてみたり、その姿を正確に写生して残しておいたり、疑問点を持ち帰ってまた別の書物を取り寄せて調べたり。独学で研究を進めていきました。

ちなみに、日本に小学校ができたのは牧野博士が12歳の頃。それまでの間、博士はすでに寺子屋や塾などで習字や漢学、西洋の物理学や天文学、英語などを学んでいました。「12歳で佐川小学校に入学したものの、いろはの勉強から始まる授業は牧野博士にとって退屈でしかないと。学びの内容が飽き足らず、結局2年で自主退学し、一人植物の研究に没頭していったというわけです」。

東大も一目置く、日本を代表する植物学者として活躍。


地元高知を拠点に独自の研究活動を進めていた牧野博士。やがてその活躍は多くの植物学者の知るところとなり、1884(明治17)年、22歳の時に東京大学理学部植物学教室への出入りが許されることとなりました。橋本さんは「まだまだ植物分類学の黎明期だった当時、東大の植物学教室も植物の情報を欲していました。そこで、土佐にものすごく植物に詳しい奴がいると教室内で話題になり、小学校中退ながら東大に迎え入れられたんです」と話します。

教室内には、地元では見られないような標本や書物がたくさん。牧野博士はそれらを活用しながら研究に打ち込み、知識や能力をますます高めていきました。そして1889(明治22)年、27歳の時に新種「ヤマトグサ」を発表し、日本人として国内で初めて新種に学名を付ける偉業を成し遂げたのです。

当時、植物分類学は海外のほうが進んでいたことから、新種らしき植物を発見しても海外に標本を送り、確認や名付けを依頼していたそう。「そういった状況に対し、これからは日本の植物は日本人によって名付けていくべきだと唱えた牧野博士は、地元高知で見つけた新種の植物を『ヤマトグサ』としたのです。この名前からも、博士の日本人としての誇り、大和魂が伺えます」。

牧野博士によって発見され名付けられた植物たち。


「ヤマトグサ」をはじめ、牧野博士が発見・命名した植物は数多くあります。その中でも代表的なものが「スエコザサ」。1927(昭和2)年に仙台で発見した新種のササであり、牧野博士の妻・壽衛(スエ)さんにちなんでいます。

命名は発見の翌年で、当時の牧野博士は66歳。それまで博士は植物の名前に人名を付けることはおろか、学問に私情を挟むことを一切嫌っていたのだとか。しかし、病に倒れもう長くないとされた妻を前に、この時ばかりは献身的に支えてくれた感謝を込めて、特別に愛する人の名前を付けたといわれています。

橋本さん曰く、「結局、奥様は発表の5日前に亡くなり、『スエコザサ』が世に出る様は見届けられませんでした。しかしながら、後に多くの人に知られ、今なお愛溢れるエピソードとともに語られることとなったのが、この『スエコザサ』なのです」。

その他、「ジョウロウホトトギス」など、地元高知で発見・命名した植物も多数あります。「ノジギク」は、野路に咲いていたことから命名。しかし、本来は海辺に多く山辺ではほとんど見られないことが後々分かり、牧野博士は自ら勇み足だったとこぼしたというエピソードが残っています。「ヨコグラノキ」は、横倉山で発見されたもの。晩年になって自ら山に登り、感慨深げにこの木に触れた後、枝を大切に自宅に持ち帰ったというエピソードが残る、牧野博士が愛した木の一つです。

晩年は未来へつながる教育普及活動に尽力。


牧野博士の業績を語る上で、もう一つ重要なのが教育普及活動です。特に晩年は植物の魅力を広く伝える書籍を数多く発行し、全国で観察会や講演会などを開催。日本中のアマチュア植物愛好家や研究家からの問い合わせにも細かく対応しました。次第に牧野博士の名は一般の人々の間でも評判となり、各地に招待されては都度多くの人だかりができるようになったのだとか。その結果、植物愛好家や研究家の数が増え、地域密着の標本採集や観察のデータ蓄積が進み、植物研究のさらなる発展につながりました。

橋本さんは、「こうして牧野博士の元には各地の植物の情報が寄せられ、標本もたくさん送られてくるようになりました。東京にいながら日本中の植物を知ることができましたし、生涯で40万枚以上もの標本を収集できたのには、こうした人のつながりも大きいのです」と話します。

さらに、1940(昭和15)年、78歳の時に『牧野日本植物図鑑』を刊行。編集に約10年もの歳月をかけて作り上げた、牧野博士の持ち得る知識のすべてが詰まったような図鑑です。植物についてはもちろん、植物を知ることの大切さと楽しさ、植物を愛する気持ちまでをも広く伝えるような、正にこれまでの研究と教育普及活動の集大成といえるもの。この図鑑は現在でも、植物研究者や愛好家必携の書となっています。

人生のすべてを植物にささげ、植物を愛し続けた牧野博士。その大いなる功績は日本の植物分類学発展の歴史そのものであり、これからも長く語り継がれていくことでしょう。