BOTANIST Journal 植物と共に生きる。

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HOW TO 09

花を描くこと|文・中村一般

中村さんが植物の絵を描く理由を教えてください、とお題をいただいたので書いてみます。本題へ入る前に、好きな植物の話をさせてください。

私の部屋にはがじゅまるがいます。ウォーリーと名付けており、ウォリ丸と呼んでいます。大好きな映画『WALL・E』が名前の由来です。 今年の春に購入したのですが、きちんと水をあげて日光に当ててやると、ぐんぐんと枝や気根を伸ばし、青々とした葉っぱをつけてくれます。専用スプレーで葉っぱの汚れをとり、置き肥を与えると元気になります。きちんと手入れをするとそのぶん応えてくれるのでかわいいです。

がじゅまるを好きになったきっかけは、中学生のころに出会った吉本ばななさんの小説『なんくるない』でした。主人公の桃子ががじゅまるを育てていたり、舞台となる沖縄のイタリアン屋台にがじゅまるの木が生えていたりしました。繰り返し読んでいたので、中学生の私の脳にも「なんか素敵なものだぞ」と根付いたようです。

奄美群島に属する徳之島という離島に行ったとき、樹齢300年を超える大・大・大がじゅまるを見ました。プラネタリウムのように天井いっぱいに太い枝が伸びまくり、ファンタジーの森に迷い込んだようでした。がじゅまるは枝から気根というツタのようなものを生やします。それが垂れ下がって地面につくと、気根はどんどん太くなって1本の幹になります。そこからまた気根がうじゃうじゃと生えて、幹になって……を繰り返します。これを300年繰り返すと、家など簡単に飲み込んでしまえるほど大きくなるのです。強い生命力です。家にいるウォリ丸も、この地に植えたら、自分が死んだあと、自分の背丈の何十倍もの大きさになるのでしょう。ガイドさんが「ぼく、もののけ姫のデイダラボッチってがじゅまるの木がモデルなんじゃないかと思うんですよね」とおっしゃっていたのを思い出します。

締め切りに追われ、徹夜で仕事しているとき。ふと横に目をやると、ウォリ丸がいることにホッとします。少し湿った葉っぱを撫でると、生き物に触っているとき特有の安心感があります。パソコン、iPad、ニトリのデスクという無機物の空間に、自分と同じように水を飲んで呼吸する生き物がいると、部屋の風通しが良くなるようなスッとした気持ちになります。


さて、本題です。自分がなぜ植物……特に花を描いているのか、考えてみました。 断言すると、そこには「政治的な」理由があります。弔いと癒しの意図があります。決して安全ではない社会やSNS上で、自他共に心を休められる空間を作りたいと思って描き始めました。

花をモチーフにするようになったきっかけは2つあります。 1つめは、2022年3月5日に行われた「No War 0305」という反戦集会です。2022年2月24日に開始した、ロシアによるウクライナ侵攻に対する抗議集会です。新宿駅前の路上で行われました。さまざまなミュージシャンやスピーカーがステージに立つのですが、そのステージには「NOWAR」と書かれたポスターと、いろとりどりの花が飾られていました。ガーベラ、カーネーション、テッポウユリなどたくさんありました。最初は「花?」と思いました。しかし、緊張感のあるステージが進むにつれ、その場に花という生き物がいるだけで、空間がちょっとだけやさしくなるのを感じました。私の部屋にウォリ丸がいると、風通しが良くなる感じがするのと似ています。

2つめは、『みどりのゆび』という本です。2022年12月、モーリス・ドリュオン著の児童文学『みどりのゆび』と出会いました。主人公・チトが、植物を咲かせる魔法のこもった「みどりのおやゆび」を使って、犯罪者やホームレスを助けたり、戦争を止めたりする物語です。チトは、戦車や銃に花を咲かせて使えなくしたり、爆弾の中身を火薬ではなく花にしたりしました。武器が使えなくなった軍は攻撃をやめ、平和が訪れます。

作者のモーリスは、第二次世界大戦を生き延びた人です。ナチスに占領された祖国フランスを離れ、物語を描いた人です。この世界には魔法はないので、戦車に花を咲かすことはできません。ですが、こどもたちにむけた物語『みどりのゆび』は、魔法なんてないのはわかってる、それでも、という彼の祈りだと思うのです。作中、チトのこんなセリフがあります。「花って、さいなんがおこるのをふせぐんだよ」。 私の脳は単純なので、これだ!と思いました。こうして花を描き始めました。


自分の描いた作品の中に、「どうかあなたのまま咲いていて」というタイトルの絵があります。アスファルトに咲くタンポポと子犬をかきました。近所に咲いていたものです。制作日は2023年2月4日。とある政治家のセクシャルマイノリティに対する「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」という発言が報道された次の日です。落ち込んだり、悲しんだり、怒っている当事者の方が、身の回りに、本当にたくさんいました。たのむたのむたのむだれも死なないでくれ生きていてくれこれ以上だれも傷つけないでくれ、と思いながら描きました。

連日悲しいニュースが流れるのを目にしながら、身の回りに咲いている花を描いていました。小説『なんくるない』のように、悲しいときに逃げ込める作品に救われたので、そういう絵を描きたいなと思いました。他人もそうだし、なにより自分の拠り所になるものを作りたかったのです。

現在もこの気持ちをもって絵を描いていることに変わりはないのですが、最近花というもの に対する認識を改める機会がありました。

2023年11月、「イスラエルによるパレスチナ人虐殺」の抗議デモに参加した時のことです。急いで行ったのでプラカードを用意できず、花屋で赤い花を買って参加しました。弔いの意と、会場に花があると「No War 0305」の時のようにちょっとでも空気が和らぐと思ったからです。 後日、「虐殺への抗議で、誰かが殺した花(切花)を掲げる意味ってなんでしょうか?」というようなご意見を目にしました。たしかにそうだな……!と思いました。切り花は人間が売るために育てて、切り取ります。人間は切り花がなくても生きていけるし、たしかにこれは娯楽のための命の搾取とも捉えられるよな、と。

パレスチナ自治区のガザには、攻撃が始まった10月7日から約2か月半の間に、広島長崎の原爆2発分に当たる爆弾が撃ち込まれたそうです。2万人以上のパレスチナ人が虐殺され、50万人以上のパレスチナ人が怪我を負い、185万人以上のパレスチナ人が故郷を追放されています。次の瞬間に死ぬかもしれない人に対して、遠い地で花を捧げることになんの意味があるのでしょうか?


ふとパソコン画面から目を離し、横を見ると、がじゅまるがいます。私が買ってきて、植木鉢に移した子です。私はなぜこの子を買ってきたんだっけ?なぜ育ててるんだっけ?そういえば、癒しがほしいという利己的な理由だったな、と思い出します。

花を捧げる、花を描く、がじゅまるに水をやる、他者に対して祈る、デモに行く。 これらの行為は似ています。そのどれもが自己満足であるということです。他者に対して何かをしたいという気持ちは、突き詰めると、必ず、利己的な考えに行き着きます。

しかし、こうした自己満足の行動が、思いもよらぬところで他者に影響を与えることがあります。そういったことが過去に何度かありました。100%自分を救うために描いた漫画を、「この作品で救われました、お守りにしています」と言ってくださった読者さんがいました。逆に、自分を肯定したくて書いたという誰かの歌が、私の生活の深いところに寄り添ってくれたりします。利己と利他は紙一重なのではないでしょうか。

きっと今自分のしている行動は、来年には結果が出なくても、何十年後、何百年後に答え合わせができるかもしれないのです。自分が生きている間に植えた種が、何百年後に巨大な樹となっている可能性だってあるのです。徳之島で見たがじゅまるのように。

そんなことを考えながら、花の絵を描いています。


イラスト:中村一般
編集:むらやまあき